救いの三本柱(三救)Three Pillars of Salvation

慰霊について


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慰霊

【御教え 祖霊と死後の準備 霊界叢談『自観叢書』第三篇、昭和二十四年八月二十五日】

抑々死に際し霊体離脱の状態は如何というに、之に就て或看護婦が霊視した手記が相当よく書いてあるから記してみよう。

之は西洋の例であるが人によって霊の見える人が西洋にも日本にも偶々あるのである。私は悉しい事は忘れたが、要点だけは覚えているがそれは斯うである。「私は或時、今や死に垂んとする病人を凝視していると、額の辺から一条の白色の霧の様なものが立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうする裡に、雲姻の如き一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、間もなく而も徐々として人体の形状の如くなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、凝っと自己の死骸を見詰めて居り、死体に取ついて悲歎にくれている近親者に対し、自分の存在を知らしたいような風に見えたが、何しろ幽冥所を異にしているので諦めたか、暫くして向直り窓の方に進んでゆき、いとも軽げに外へ出て行った」というのであるが、之は全く死の刹那をよく表わしている。

右手記は一般人の生から死への転機の状態であるが、西洋の霊界は平面的であり、東洋の霊界は立体的である。之は日本は八百万の神があり、大中小上中下の神社があり、社格も官幣、中幣、県社、郷社、
村社等、種々あるによってみても如何に階級的であるかが知らるゝのである。之に反し西洋はキリスト教一種といっても可いのであるから、仝く経と緯の相違である事は明かである。故に前者は多神教で後者は一神教というのである。

次に人の死するや、仏教に於ては四十九日、神道に於ては五十日祭を以って一時打切りにするが、それはその日を限りとして霊界へ復帰するのである。それ迄霊は仏教にては白木の位牌、神道にては麻で
造った人形の形をした神簸というものに憑依しているのである。茲で注意すべきは、死者に対し悲しみの余りなかなか忘れ得ないのが一般の人情であるが之は考えものである。何故なればよく謂う「往く所へ往けない」とか「浮ばれない」とかいうのは、遺族の執念が死霊に対し引止めるからである。故に先ず百ヶ日位過ぎた後は成可忘れるように努むべきで、写真なども百ヶ日位まで安置し、其後一且撤去した方がよく、悲しみや執着を忘れるようになった頃又掛ければ可いのである。

次に仏壇の意義を概略説明するが、仏壇の中は極楽浄土の型であって、それへ祖霊をお迎えするのである。極楽浄土は百花爛漫として香気漂い、常に音楽を奏し飲食裕かに諸霊は歓喜の生活をしている。それを現界に映し華を上げ、線香を焚き、飲食を饌供するのである。又鐘は二つ叩けばよく、之は霊界に於る祖霊に対し合図の意味である。之を耳にした多数の祖霊は一瞬にして仏壇の中へ集合する。然し此事は何十何百という祖霊であるから、小さな仏壇の中へ如何にして併列するか不思議に思うであろうが、実は霊なるものは伸縮自在にして、仏壇等に集合する際は其場所に相応するだけの小さな形となるので、何段もの段階があって、それに上中下の霊格の倭整然と順序正しく居並び、人間の礼拝に対してうやうやしかは諸霊も恭しく会釈さるのである。そうして飲食の際は祖霊はそのものゝ霊を吸収するのである。然し霊の食料は非常に少く、仏壇に上げただけで余る事があるから、余った飲食は地獄の餓鬼の霊に施すので、その徳によって祖霊は向上さるゝのである。故に仏壇へは出来るだけ、平常と雖も初物、珍らしき物、美味と思うものを一番先に饌供すべきで昔から孝行をしたい時には親はなしという諺があるが、‘そんな事は決してない。寧ろ死後の霊的孝養を尽す事こそ大きな孝行となるのである。

勿論墓参法事等も祖霊は頗る喜ばれるから、遺族又は知人等も出来るだけ供養をなすべきで、之によって霊は向上し、地獄から脱出する時期が促進さるゝのである。
世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はないとしてあるが、之は大きな誤りである。何となれば両親が生きているとして、長男だけが好遇し、次男以下は冷遇又は寄付けさせないとしたら、大なる親不幸となるではないか。そういう場合霊界におられる両親は気づかせようとして種々の方法をとるのである。その為に病人が出来るという事もあるから注意すべきである。

今一つ注意すべきは改宗の場合である。それは神道の何々教に祀り替えたり、宗教によっては仏壇を撤去する事があるが、之等も大いなる誤りである、改宗する場合と雖も、祖霊は直ちに新しき宗教に簡単に入信するものではない。恰度生きた人間の場合家族の一員が改宗しても他の家族悉くが直ちに共鳴するものではないと同様である。此為祖霊の中では立腹さるゝものもある。叱責の為種々の御気付けをされる事もある。
それが病気災難等となるから、此一文を読む人によっては思い当る節がある筈である。

茲で霊界に於る団体の事をかいてみよう。霊界も現界と等しく各宗各派大中小の団体に分れている。仏教五十数派、教派神道十三派及び神社神道、キリスト教数派等々それぞれ現界と等しく集団生活があ
って死後、霊は所属すべき団体に入るがそれは生前信者であった団体に帰属するのである。然るに生前何等信仰のなかった者は所属すべき団体がないから、無宿者となって大いに困却する訳であるから生前
信頼すべき集団に所属し、死後の準備をなしおくべきである。

之に就て斯ういう話がある。以前某所で交霊研究会があった際、某霊媒に徳富蘆花氏の霊が憑った。そこで真偽を確める為蘆花夫人を招き鑑定させた処、愉かに亡夫に違いないとの証言であった。其際種種の問答を試みた処、蘆花氏の霊は殆んど痴呆症の如く小児程度の智能で、立合ったものは其意外に驚いたのである。それは如何なる訳かというと、生前に於て死後を否定し信仰がなかったからで、生前トルストイの人道主義に私淑し、人間としては尊敬すべき人であったに拘わらず右の如きは全く霊界の存在を信じなかったからである。


再生

人間の再生には非常に遅速のあるものである。そうしてその再生の遅速は如何なる理由に由るかというに、それは其人の意志に由るのである。譬えば、死に際し現世に執着をもった者ほど早く再生するの
であるが、然し、之は結果が良くないのである。何となれば、霊界なるものは、最も厳正に浄化作用の
行われるものであるから、霊界に長く居れば居る程浄化され、霊体は浄まるのである。浄まった霊体ほ
ど再生して幸福者となるのである。此理によって早く再生する場合は、汚濁が残存しているから、再生
の後現世に於て浄化作用が行われなければならないからである。勿論現世の浄化作用とは、病気、貧乏、
災い等の痛苦であるから不幸な運命を辿るという訳である。故に、生れ乍らにして幸不幸があるという事は右の理に由る事が多いのである。故に、決して幸不幸は偶然ではなく、必然である事を知らなければならない。然し乍ら、今一つの原因がある。それは死後の霊魂に対し、その遺族が誠意を以て懇ろなる法要を営むとか、又は遺族及び其子孫が人を助け慈悲を行い、国家社会の為に尽す等、善徳を積む事によって、祖霊の浄化作用は促進されるのである。
右の理によって、親に孝を尽すのは現世のみではなく、寧ろ死後、供養や積徳によって霊界に於ける親に孝養を尽す方が、より大きな孝行となるのである。世間よく「孝行をしたい時には親は無し」-というが、之は全く霊界の消息を知らないからである。(後略)



親孝行につい

親に孝を尽すのは現世のみではなく、むしろ死後、供養や積徳によって霊界における親に孝養を尽す方が、より大きな孝行となるのである。世間よく「孝行をしたい時には親は無し」――というが、これは全く霊界の消息を知らないからである。
『明日の医術』昭和18年10月23日


子孫たるもの供養を怠ってはならないこ

地獄界の霊は自身の苦行または子孫の供養によって漸次向上するのであるから、子孫たるもの供養を怠ってはならないのである。
私がある霊を救い鎮祭してやると、間もなく私に憑って来た。その霊いわく。「今日御礼と御願いに参りました。御蔭で極楽へ救われ嬉しくてなりません。私の 嬉しい気持はよくお判りでしょう」という。なる程その霊が憑依するや、私は何とも言えない嬉しさが込み上げて来る感じである。次いで霊の御願というのは、 「どうか再び人間に生れて来ないように神様に御願して頂きたい」と言うので、私は不思議な事を言うものかと思いその理由を質(たず)ねると、「極楽は生活の心配がなく実に歓喜の世界であるに反し、娑婆は稼いでも稼いでも思うように食う事さえ出来ずコリゴリしたこと言うのである。これによってみると、霊界行 も満更悪いものではないらしく、死ぬのも楽しみという事になるが、それには生きている中に善根を積み天国行の資格を作っておかなければならないという訳で ある。
『霊界叢談』昭和24年8月25日

位牌について

――位牌に何々家先祖代々とか、代々霊、代々之霊、代々之霊位、代々之精霊とかいろいろありますが、いずれが一番正しいのでしょうか。また過去帖だけで位牌のない家、または繰位牌の家がありますが、これはいかがでしょうか。

 いずれもたいして問題はないが、常識的に言えば、代々之霊位がよい。過去帖、繰位牌は位牌を作るべきである。だいたいある物の使命、用途を考えるべき で、過去帖は元来祖先の戒名や命日を忘れぬために記録してあるもので、供養の対象ではない。供養のために位碑があるので、それに祖霊がお憑りになるのである。繰位牌も感心せぬ。
昭和24年2月1日

神道と仏教

――神道信者の家で娘が死去し、神式にて火葬に付し、その遺骨は仏式にて寺に埋葬し、現在は神籬(ひもろ ぎ)の上に戒名をかけて祀っておりますが、母親がその娘のことにつき毎夜のごとくいろいろの夢を見るそうです。神道と仏教といずれを主として御供養するの が正しいのでございましょうか。

 娘が光明如来様を祀ってほしいと夢で知らせているのでしょう。
昭和24年5月5日

――仏教にては、「何々家先祖代々之霊位」という位牌を作って祖霊様をお祀りいたしておりますが、神道の形式にてはどのようにしてお祀りしたらよろしゅうございますか。

 教派神道、神社神道、またはその霊の信仰の程度により祀るとよい。そのような信仰をやらぬものは、仏でやってやるとよろしい。○○家祖霊神、と祀ればよろしい。
昭和24年8月1日


法要の場所、念仏について

――法要、年忌などをする場合、自宅とお寺といずれで営むのがよろしいでしょうか。また、念仏を称えるのに矛盾を感じるという信徒がございますが、これはいかがいたすべきでしょうか。

 これはね、どっちでもいいんですがね。結局その人の誠ですよ。供養しようとする人の誠が映るんです。しかし、できたら、そして経済も許したら寺がいいですね。寺っていうのはそういうことの専門の場所ですからね。ふつうの家は人間の住む所ですからね。
 念仏は霊は嫌がりますよ。阿弥陀様はもうインドヘ帰ってますからね。しかし、坊さんが念仏を上げるのはしかたがありませんがね。まあ、この道の信者だったら、念仏のあとで善言讃詞で口なおしをしてあげるんですね。(爆笑)
『御光話録』12号、昭和24年9月21日


餓鬼道について

餓鬼道には供養されない霊が行くのである。又強欲非道の霊もこの道である。これは強欲の為に人を苦しめ悩ますからである。供養の事については、色々の霊は喰うのであるが、本当の神様は食物は召上がらんで、反って神饌物に霊気を入れて下さる。大神様は森羅万象皆自分のものであるから人の上げるものなぞ召上らんでも良いのである。召し上りたければ何んでも召し上がれる。それも決して盗み喰いするのではない。これに反し餓鬼は店に並べてある食物等やたらに喰う。この為に店に列べてあるものは不味(まず)くなるのである。今までの神様は人間の上げるものを食するだけの神様であったのであると言う事がよく判るのである。
 畜生道へ落ちる霊は餓鬼道の霊が犬猫の食物を喰っているのを横から取って食べる様なのがあるが、それが獣と霊がくるみ合って終い、畜生道に落ちるのである。犬や猫の中によく人間の用をするのがあるが、これらの霊が生れ更って来たもので人の用をして罪を赦されて次には人間に生れ更るのである。その霊は人間に祀られるから自然それと同様に霊がくるみ合っている為、同様に祀られてこの次に生れる時人間に生れてくるのであってこれを転生という。
人が人に生れることを再生と言い、天から下るを降誕と云う。高貴の人の生れるのを生誕と言い、普通の人の生れるのを誕生と言う。又出生ともいう。神様等のお生れを降誕と言うているのは良く判る。
 地獄で一番長く苦しんでいる霊は六千年であって、それからは最底の地獄の霊でも許されるのである。底の国とは海底である。
 又死ぬ時に想念で一人々々が余程違うのである。生の執着の多少にて非常に違う。早く死んで極楽に行きたいと思って死ぬ人は早く生れ変ってこない。なぜならば、自分の思った所へ行けた為、再び人として生れ変って来よう等と思わないからである。これに反して生の執着の強い人は早く生れ変ってくる。脳溢血等にて急に死んだ人は特に供養しなければならん。生の執着の為に身寄りに懸って病気をさしたり等するのはこの様な霊に多い。又親が赤坊の死を嘆くとこの為に早く生れ変って来るのが多いが、余り早く生れ変って来た児は良くない。これは未だ赤坊の霊が浄化していないからである。この赤坊が浄化して後ならば立派な児に生れ代って来る。
『観音講座』昭和10年8月15日


地縛霊について

次に、地縛の霊というのがある。これは変死者の霊であって、溺死、縊死(いし)、轢死(れきし)、墜死、毒死、自殺、他殺等であるが、これらの死霊はいかに懇ろに葬るといえども、その死所を放れる事が出来得ないもので、ちょうど、地に縛られたごとくであるから地縛の霊というのである。これらの霊は、居所が墓場と異なり孤独であるから相手を求めたがるのである。それが為、その霊の付近を通行するものを誘って自殺又は変死させんとするのである。世間よく轢死者があったレールの付近や、溺死者のあった水辺等に、次々変死者が出るという事は、誰も知る所であるが、右の理によって肯(うなず)れるであろう。
 そうして地縛の霊は三十年以内には離脱出来得るものであって、死者の近親者等の供養のいかんによって、離脱に遅速のある事は勿論である。
『明日の医術』昭和18年10月23日


慰霊祭について

それから「慰霊祭」というのも人任せにせぬ方が良いですね。それぞれの宗教で、慰霊祭の斎行方法を知り得たならば、自分の霊性を高めつつ真心を込めて自分で取り組んでいく事も大切です。
メシヤ講座・特選集(平成13年5月分)


お盆の慰霊祭について

 ― 先祖の慰霊については善言讃詞を奏上するとよいと伺ったのですが、先祖の救いになるのでしょうか?

 「理解しやすいように、私の若い時の体験をお話いたしましょう。原因不明の頭痛に苦しむ人が四国にいまして、色々と事情を聞く内に墓が関係していることが解りました。家の裏の小道に一つの石があって、それがどうも先祖の墓石らしいのです。人一人通れるような小道にポツンと石がありまして、それをよく皆踏んで歩くらしいのです。

 自然石を使った古い墓です。‘これはいけない’と気付いて‘何とかしよう’ということになり、更に調べてみると、 400年以前の墓をはじめ40を越す墓が一帯にありました。それで全ての墓上げをして、先祖代々の墓を建てることになりました。私は初めてのことでしたので、メシヤ様の教えに則って誠を尽くして斎行するしかないと意を決しました。

 メシヤ様の教えでは、土葬の場合、埋葬後100年までは全て堀り上げ、100年以上は墓石から30センチほど下の土を掘り上げ納めるということです。因みに、いざ作業を進めると、100年未満の墓では遺骨が必ずあるが、100年以上では遺骨を見つけることができませんでしたね。

 墓上げ作業を終え、建墓式を執り行いました。善言讃詞を奏上致しました折り、それまで暗い曇り空だったのですが明るい日が差し込んで、‘先祖の喜び’が伝わってきた想いが致しました。

 ところが、その人の奥さんは不安だったようで、翌日熟練の霊媒師を呼んで‘本当に墓の先祖が上がっているかどうか’を調べてもらったようです。私が余りにも若かったからでしょう。後に告白されましたが、『こんな見事な墓上げは珍しい。全て喜んで上がっている』と太鼓判を押された、と言ってました。何か変な気持でしたね。

 メシヤ様の教え、それから善言讃詞というものは、それ程偉大な救いの力があるのですね。お盆も近づいてきますので、慰霊祭などでは善言讃詞を心こめて奏上すると良いですね。」
メシヤ講座・特選集 (平成14年6月分)

本日は式典後の夜にご先祖の遷霊式を執り行ないますが、位牌というものを考えてみると、これは厳密には仏教ではない訳です。黒塗りの板に金泥で記入する様式は儒教です。インドから中国を経由して渡って来る間にそうした様式が一緒に入ってきたのです。そして元々日本には神道形式の先祖供養様式がありましたから、それに合致したのです。それで定着したと思われます。
メシヤ講座・特選集(?70・平成18年11月分)

他界して五十年以上経つ人の慰霊と宗教的グッズの処置

(質問者) 五十年以上前に亡くなられている方のことが、気になって仕方ないのですが、どうしたら良いでしょうか?

 他界された方は、四十九日の間は白木のお位牌でお祀りし、以後五十年間は黒塗りのお位牌、五十年を過ぎたら先祖代々のお位牌に合祀するということになっています。ですから、今のご質問の方の慰霊は先祖代々のお位牌を通して行えば良いということになります。ただどうしても気になるという場合は、そうですね一回きりの慰霊祭を執り行うと良いでしょう。そして、それを期に先祖代々のお仲間入りをしたと考えて、気にしない事です。慰霊祭の在り方ですが一回きりの慰霊祭を執り行うお位牌を用意します。そして何時もの家庭慰霊祭のような式順で誠をこめて執り行えばよいです。これから各地にできる人を育ていかねばいけませんね。そして、終了したお位牌は本部の方でご処置します。

 有難い事に、今月からご処置できる施設が許されましたので、どうぞ安心してください。ご処置は、地上天国祭を機に許された訳で、神様のご配慮にただただ感謝するばかりです。このご処置というのは、位牌に関わらず、他の宗教的グッズでも構いませんので、取り扱いに困っている事がありましたら、遠慮なくご相談ください。

 慰霊の話が出ましたので、お盆の慰霊祭について触れて起きますが、新でも旧でもそれぞれの家系で受け継いできた在り方で、真心を込めて執り行ってください。先祖という存在は、誠がないと快く受け取りませんからね。また、お盆は『地獄の釜の蓋が開く』と言われる位ですから、日頃仏壇に来られない方々もいらっしゃるので、より一層懇ろなる慰霊祭を心掛けてください。
メシヤ講座・特選集七(平成十三年六月分)



事故原因の究明と共に犠牲者の救霊が急務

(質問者) また、言いようのない惨事が明石市で起きましたが、どうしてこのようなことが起きるのでしょうか?

 事故のことを考えると、胸が痛くなりますね。日本はどうしてしまったのだろう、と考えても仕方がありませんから、大事なことを幾つか話しておきます。辛い話になりますが、事故死の場合「地縛霊」になります。メシヤ様の教えでは、通常三十年間です。理不尽な亡くなり方をして、その上三十年間もその場に地縛されなくてはならない訳ですから、大変お気の毒です。その事を考えれば、地縛期間を短縮する取り組みをしてあげたいですね。ご遺族の方は、辛くとも何処で息を引き取ったかを救急隊員に確認をして、その場で慰霊に取り組むことが何よりも大切です。

 次に、群衆の中で亡くなられた方は、来世で群衆を恐れる?精神の癖?を持つ可能性があります。例えば、メシヤ様の教えでは、火癲癇は前世において火事で亡くなられた人に起きる、とあります。それ程、亡くなり方というのは来世に影響を及ぼします。それ故に、事故原因の究明が進展するごとに、霊前に報告し、また「このように改善されたので、二度とあのような事は起きない。安心して欲しい」と切々と語り掛けをします。しかも、「あなたの死は悔やんでも悔やんでも余りあるが、霊界に旅立った以上現界に執着を残さず、霊の浄化に努めてください」と祈っていきます。執着を残すと、早く生まれ変わり浄化不充分の状態である可能性が高まりますので、不幸な生涯を送らねばならなくなります。
メシヤ講座・特選集九(平成十三年八月分)


新宿ビル火災について

(質問者) 先月、地縛霊についてのお話がありましたが、新宿ビル火災で犠牲になられた方の場合も同じなのでしょうか?

 痛ましい事故が続きますね。お話をするのでさえ、辛くなります。ビルの管理者や各テナントの経営者は、結果的に殺人行為と同じことをしたことになりますね。

 犠牲者には大変お気の毒なのですが、地縛のみならず、浮遊霊状態ですね。それは、死の自覚がほとんど無かったからですね。最近神様から知らされたところによりますと、『死の自覚がないと、神といえども救えない』ということです。なぜ死の自覚が無いかと言いますと、化学物質を多用する建築様式に関わります。火災による有毒ガスには、気持ちよくなるものさえあります。つまり、ふらーっと気を失ってそのまま死に至るケースが非常に多いと言われます。薬の多用によって臨終の自覚が無いために、病院に浮遊霊が多いというのと同じですね。ですから、火事というものは、以前の概念と変わったのだという認識をしっかり持って、対処法を何時も心掛けていなくてはいけません。

 ご遺族には、酷な話に聞こえるでしょうが、事実なのですから救いのために話さねばなりません。どうすべきかという話になりますが、現地で慰霊祭を繰り返すしかありません。そして、死の自覚を促すのです。いかにも慰霊祭という形式で行うべきです。無宗教的形式をと言う方がいますが、ナンセンスですね。それは、故人が最も死を自覚できる方法を採らなければならないからです。例えば、二十 歳の犠牲者であれば、二十年間に体験した葬式の形態がよいのです。すると、代々続けてきた宗派がよいということになるのです。

 私は、現代仏教の使命の一つは?死者をきちんと弔う?ことだと思います。そのためには、もっと病院に出向かねばなりません。そして、引導を渡してあげねばなりません。その点、新興宗教の方がマシですよ。死者にキチンと真向かっていますからね。ただ、病院側は嫌いますがね。しかし人間の尊厳性を重視すれば、もっとあり方を改善すべきです。
メシヤ講座・特選集十(平成十三年九月分)


お彼岸の慰霊祭

 「よき風習や伝統を守るということに、重要な意味が出てくると思います。もうすぐ三月です。お彼岸を迎えますね。三月の家庭慰霊祭は二一日に行ってください。それぞれの土地、家風に沿って誠を持って祭行していただけば結構です。
メシヤ講座・特選集十五(平成十四年二月分)


犬の話

 その地域の奥地に住む人の家で、位牌を整理する話が持ち上がり、新たに設える位牌の遷霊式を執り行うことになりました。司会が「ただ今から遷霊式を執り行わせていただきます」と発し、私が祭事を始めますと、その家で飼育されている数頭の猟犬が急に吠え始めました。そして善言讃詞を奏上する頃にはピークに達し、「以上をもちまして終わらせていただきます」と司会が言うと、スーッと吠えなくなったのです。

 「不思議なことがあるものだ」と参列者達が語り始め、私はふと子供の頃の事を想い出しました。昭和三十年代、私の家で仏壇に善言讃詞を奏上し始めた頃、集落のあちこちから下駄の音が近づいて来て濡れ縁のところでカタッと脱ぐ音がして、見ても誰もいないのですが音だけはする訳です。母や祖母は怖くて背筋がゾクゾクしたそうです。当時の教会長は、「集落の先祖達が救いを求め善言讃詞を拝聴しに来たのだ」と解説してくれました。

 それと同じで、人の目には映らなくとも、善言讃詞を拝聴するために来たその集落の先祖達の気配を犬が感じて吠えたのです。その話をしたところ参列者は納得して、さらに信仰を深めました。また私への信頼も強くなりました。

 先ほどの祖霊祭祀の根本も本来ここにあるのです。絶対的救済力の言霊である善言讃詞を、神様から力をいただいて奏上する祭事が家庭慰霊祭です。真心を込めることを表現する一つに、自分達でお供え物を準備するということがあります。準備に誠を込めれば込めるほど時間がかかります。面倒臭がる人がいる中で、滞りなくできるようにお世話することは大変な手間がかかります。

 そこへ行くと、五千円という祭祀料を納めれば本部で慰霊祭をしてくれる、というお世話は楽です。また、教団にとっては、上手に恐怖心を煽っていけば申し込みは継続されます。財務的に安泰なのです。

 教団改革が開始された時に、祖霊祭祀を廃止する議論が机上に上がったのですが、結局運営上(事業計画上の収支)の問題で有耶無耶になりました。

 情け無さでいっぱいになりました。私はやがて、?どうしても本来のあり方を実現せねば?と思わされました。その頃からご内流が始まったのです。
メシヤ講座・特選集三十二(平成十五年九月分)


本当の成仏とは

Q 『伊都能売神』を読ませていただき、仏教に対する考え方が一変致しました。

A やはり『実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。』ということに、皆さん驚かれますね。また、荒唐無稽な推論だと批判する向きもありますが、仏像を拝すれば一目瞭然です。インドで作られた観音像のお姿が何故日本人特有のものとなっているのでしょうか。釈迦像や阿弥陀像はインド人特有のお姿に関わらず、観音様は明らかに違います。

 差異なところを明確にして「観音様は日本の神様である」と示していることが判ります。メシヤ様の教えはこうした解答を見ても非常に明確ですね。

仏の資格

 それから、阿弥陀如来の『覚者即ち仏の資格を得た者・・・』というお言葉のところが重要な意味を持ちます。

 仏の資格、というと首を傾(かし)げる方も多いと思います。死んだらみんな仏様だ、という言い方もされますからね。確かに「成仏」という言葉を広辞苑などで調べますと、「死んで仏となること。」と記されています。しかし、「煩悩を解脱して仏果を得ること。さとりを開くこと。」ということがその前に出ています。実はそれが大事なことなのです。

 これも仏像の話になりますが、仏像の頭に大きな瘤(こぶ)のように盛り上がった部分があります。あの形が覚りを開いた姿だと言われています。チャクラを頭部まで上げることができ、頭部が隆起するのです。その姿を形にしているのです。そして、その覚りの境地を如来、菩薩などと尊称するのです。

 信仰は有り難い、お蔭をいただいた、ということがありますが、そのことが「入口」となって覚りを開くという「奥座敷」にまで進むことが大切です。皆さんには『神格をいただく道』を毎日拝読していただいておりますが、同じ願いがあるというように捉えておいていただきたいと思います。ただ有り難いだけでは出発点に立ったに過ぎないのです。

 その点、仏教の世界では日蓮上人がそのことに気付き、仏教改革に立ち上がったのです。しかし、為政者と癒着した人々によって排斥されました。このことは周知の通りです。

 御教えに、『夜昼転換』の黎明期は日蓮上人の出現によって迎えた、と説かれております。大転換期の黎明たる所以ですね。

仏教界の怠慢

 また、先程の「成仏」という表現を、「崇(たた)りなどを起こさない」ということで捉えている場合があります。勿論覚りを開いて他界すれば、そうしたことはない訳ですが、どうも武家時代を経てそうした一方的な捉え方が強くなったようです。

 日蓮上人が排斥されてから今日まで、改革がなされなかったということでしょう。これは、仏教界の怠慢と言わざるを得ません。しかも日蓮上人の教えを求めている宗教団体にしても、そのことの取り組みが弱いように見受けられます。


お盆の霊的意味

Q  お盆の時期になりましたが、その意味についてお伺い致します。

A お盆について簡潔に述べられた御教えがあります。

 『釈迦の大慈悲から盂蘭盆会(うらぼんえ)というものを作り、毎年一回日を決めて、地獄にいる霊を子孫の家へ還らして下さるのである。その日は地獄の釜の蓋が開くというが、兎(と)に角地獄の祖霊も仏壇へ招かれ子孫に供養される。地獄の霊もそれを知っていて待っているのである。

 元来祖霊は常に全部仏壇にいる訳ではなく、平常は選ばれた留守番の霊がいるだけで子孫が拝む時だけ仏壇に集るのである。その際仏壇には或程度救われた霊だけしか来られない。つまり八衢(やちまた)以上のものが来られるので、地獄にいる霊はお盆の時以外は来られないのである。

 お盆は種々の儀式を行って霊を迎えるのであるが、「おがら」を焚(た)くのはここからお入り下さいという目印である。』

 以上のように簡潔明瞭です。ところが、肝腎要の仏教がきちんと檀家に対して教えていません。そちらの方が問題です。代わりと言っては何ですが、周囲の方々へ皆さんが教えて上げてください。教える時は、この御教えをそのままお伝えしてくださればよいのです。

霊界では習慣のままにしてくれる

 また、私の地方では、お盆に祖霊をお迎えする時にお墓へお参りし、お送りする時もお墓へお供え物を持参してお参り致しますが、所によっては、海や河へお送りするという所もあります。こうした風習については次のように述べられております。

 『之は習慣で、御丁寧にやったものであるから悪い事はないが、本当は家だけでよい。玄関まで送るのを遠方の門まで送る訳で、祖霊は、丁寧すぎるよりは普通を喜ぶ。』

 そして、土地によってお盆の日が違うことについては『その土地の習慣のままでいい。生きている時の記憶があって、お盆と思っている。霊界では習慣のままにしてくれる。』とあります。
て考えておくと良いと思います。また、こうしたお盆やお彼岸、命日には善言讃詞を奉唱させていただくことが大切ですが、御祭りの前に神様へご祈願申し上げてください。『今日何々の法事(あるいは慰霊祭)をするから、何卒(なにとぞ)御守護を、とお願いすると、御光をいただける』と教えられています。心掛けてください。
メシヤ講座・特選集四十三(平成十六年八月分)


人間

 拝読ー『本来、人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。

 そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特徴を持たせ、生き変わり、死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。』ーありがとうございました。

 毎月の「家庭慰霊祭」で拝読していただく内容です。これが人間というものですので、私達は生れ代わり死に変わりつつ進歩向上しながら生命を繋いできたのです。ですから、先祖から受け継いだものの内で良き特徴は受け継ぎ、問題とすべきものは改めてゆく作業が実は必要なのです。

 家庭慰霊祭は、その作業の節目になるのです。教団で祭祀料を包んで人任せにすることではないのです。

 そのためには、自分の家系のことをもっと調査しなければなりません。代々積んできた徳と罪穢れというものがあります。それらを充分掌握し、吟味して、その徳の部分を受け継いでゆく決意をするのが家庭慰霊祭でもあるのです。

 また、罪穢れに相当するところは改めてゆくことを家庭慰霊祭で毎回誓うのです。そうした積み重ねを先祖は最も喜ぶのだ、ということを再認識していただきたいのです。それが私達の信仰生活なのだ、ということを本日の開所式で改めてお伝えいたします。
メシヤ講座・特選集七十五(平成十九年四月分)




遷霊式次第  

只今より○○家に関われる御霊(みたま)様および○○毘(び)古(こ)(毘女)の御霊様の遷(せん)霊(れい)式をとり行わせて頂きます。

一.一揖二拝二(いちゆうにはいに)拍手(はくしゅ)
一.遷霊詞奏上   (席へ 戻る)
二.善言讃詞奏上  (席へ 戻る)
三.御讃歌奉唱   (席へ 戻る)
四.御教え「人間とは」拝読

以上をもちまして○○家に関われる御霊様および○○毘古(毘女)の御霊様の遷霊式を終了させていただきます。

遷霊詞

○○家遠津御祖代々之祖達親族家族之(とおつみおやよよのおやたちうからやからの)神霊(みたま)等(たち)やー

昭和○○年○○月○○日○○歳を以(もち)て現世(うつしよ)身(み)退(まか)り坐(ま)せし
○○○○毘(び)古(こ)(毘女(びめ))之(の)神霊(みたま)やー

今日の吉日(よきひ)に汝(なか)命(みこと)等(たち)の新位牌(にいいはい)を設(しつら)へ心新たに慰霊(みなぐさめ)の道を歩まむとする様(さま)を相諾(あいうずな)ひ聞(きこ)し召(め)し給(たま)へと謹(つつし)み敬(うやま)ひも曰(まを)すー

故(かれ)、此(こ)れより天(あま)の数歌(かずうた)唱(とな)へ奉(まつ)りて、慰霊(みなぐさめ)の奇(くす)しき式(のり)厳(おごそ)かに仕(つか)へ奉(まつ)らくを聞こしめして、心穏(おだ)ひに相享(あいうけ)け給(たま)へと曰(まを)すー

(頭を下げて)

一(ひとー)、二(ふたー)、三(みー)、四(よー)、五(いつ)、六(むゆ)、七(なな)、八(やー)、九(ここの)、十(たり)、やー
一(ひとー)、二(ふたー)、三(みー)、四(よー)、五(いつ)、六(むゆ)、七(なな)、八(やー)、九(ここの)、十(たり)、やー
一(ひとー)、二(ふたー)、三(みー)、四(よー)、五(いつ)、六(むゆ)、七(なな)、八(やー)、九(ここの)、十(たり)、百(もも)、千(ち)、万(よろず)

(頭を上げて)

○○家遠津御祖代々之祖達親族家族之(とおつみおやよよのおやたちうからやからの)神霊(みたま)等(たち)やー
○○○○毘(び)古(こ)(毘女(びめ))之(の)神霊(みたま)やー
これの新位牌(にいいはい)に清々(すがすが)しく遷(うつ)り鎮(しず)まり坐(ま)しませー

主な更新情報
2013年09月07日 更新の内容を書きます。
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