救いの三本柱(三救)Three Pillars of Salvation

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観音力とは何ぞや(再録)

自観叢書12編『自観説話集』昭和25(1950)年1月30日発行

観世音菩薩は光明如来と現じ給い、次は、弥勒またはメシヤの御活動をなされるのである。前述のごとく、光は火と水であるが、これに土が加わる事によって、火水土の御働きとなる。元来火と水だけでは霊の御働きだけで体がないが、これに土が加わって、初めて火水土の三位一体の力を発揮されるので、これが如意宝珠であり、麻邇(まに)の玉である。また火は五であり、水は六であり、土は七であるから、五六七の数字をミロクと読むのである、彼の釈尊の予言にある五十六億七千万年後、五六七の世が始まるという事は、この五六七、すなわち火水土の順序正しき世界が出現するという事でなくて何であろう。

御講話

昭和10(1935)年2月11日

いままでの支配権は(支配権といっても霊的である)鬼が持っていたのを、いよいよ奉還するのである。

尉(じょう)と姥(うば)とで世界の大掃除をいたすことである。黄泉津比良坂(よもつひらさか)の戦いは鬼と桃太郎の戦いである。

桃太郎は桃の実である。千手観音である。応神堂の千手観音のお顔は若いが、あれは桃太郎の顔である。黄泉津比良坂の戦いは、一番初めは明治神宮の参道九鬼隆二子爵の家に行ったことである。青山隠田百一番地で、百一番は「桃のはじめ」ということ、九鬼とはたくさんの鬼のことである。その戦いで勝って如意宝珠(にょいほうしゅ)の玉を夫婦で持ってきてくれた。いまでもどんどん第二、第三、第四と戦っているのである

麹町へ出たのは、鬼ケ島の真ん中へ出てきたことである

桃太郎は最勝妙如来(さいしょうみょうにょらい)である。必ず勝つのである。桃は三月三日に咲いて五月五日に実る。五月五日の鯉のぼりのことは非常なる意味がある。鯉は魚の観音である。真鯉の鱗は三十三枚である。

『御光話録』15号、昭和24(1949)年12月20日発行

――ある雑誌に、シカゴ科学博物館発表の二十一世紀の男子服装として、金糸の入ったココア色の運動着、セロファン製の銀糸の入った原子力操縦の制服、防水用のプラスチックのスカートなどを着用した人達の写真が出ておりましたが、これは「五六七の御代」の服装の優美さの型を示すものでしょうか。

九分九厘と一厘

『栄光』138号、昭和27(1952)年1月9日発行 

この論文は文明の創造の中の一節である。

神の力は十全であり、邪神の力は九分九厘であるから、神の方が一厘勝(まさ)っており、この一厘の力をもって掌を反すので、この力こそ如意宝珠であるから、私が常にいうごとく、現代文化は九分九厘までで切替えとなり、その時がキリストの言われた世の終りであるという訳である。従って、この時こそ霊界においては仰天動地の一大異変が起こるのは必然で、この事を信じ得る人にして、永遠なる幸福者となるのである。

御光話(S23年12月8日A)

 『御光話録(補)』発行年月日不明、推定昭和26年頃。

――麻邇(まに)の玉、如意の宝珠と、胎臓界、金剛界についてお伺い申し上げます。

神道では麻邇の玉、仏教では如意の宝珠と言うので、玉とは魂のことで絶対力の意味です。いままで世に出たことがなかった。で、本当のことを言うとおかしいが、これは私の腹の中に在るのです。だからいろんなことができるのです。人を治すことも、キリストはわずかに十二弟子だけしかその力を授けられず、釈迦とても往来で急病で死んだのは自分の体すら治すだけの力がなかったからです。私はキリストと違って何万人でも人を治しうる人を作ることができる。この働きが麻邇の玉です。

  胎臓界は日月地胎臓と言って「日月地」がまだ出現しない時代の仏教で夜の世界のことです。金剛界は昼の世界で、金は太陽の光のことで、日月地下生後が金剛界になるのです。

御光話(S24年9・10月)

 『御光話録』15号、昭和24(1949)年12月20日発行

  ほう、おもしろいですね、これは。そうですよ、型なんですね。……「五六七の御代」になると男の服にも金を使うようになるんです。なぜかって言えば、いまは金貨本位だけど、「五六七の御代」になれば紙幣ばかりになり、金は装飾に使われるようになるんです。それで服なんかにも使うんですね。私はそのうちに「五六七の御代」の服を作るつもりですがね、そりゃあ、すばらしいもんですよ。だいたい上中下の三階に分かれていて、一番上のは紫地に金糸で雲や鳳凰の柄を織り込むんです。だから男の服装なんかも非常に派手になるんです。それに比べりゃ、いまの人のは地獄の服装ですよ。(笑声)服だけじゃなく、靴にも帽子にも金糸を使うようになるんです。

――帽子に金を使うと頭が重くなりはしませんでしょうか。(笑声)

  そんな気のきかないことはしませんよ。(爆笑)で、偉い人になるとその上にさらに宝石なども使うんです。(『御光話録』九号参照)

奈良美術行脚

 『栄光』156号、昭和27(1952)年5月14日発行

  今度私は、日本仏教美術調査研究のため、奈良地方へ赴き、著名な寺院を次々観て廻り、大いに得るところがあったから、今その感想をいささか書いてみよう。何しろ今から千二、三百年以前、推古(すいこ)、飛鳥(あすか)、白鳳(はくほう)、天平(てんぴょう)時代から、弘仁、藤原等の時代に至るまでの作品であるが、観る物ことごとくと言いたい程、素晴しいものばかりなので、面喰ったくらいだ。よくもこんな古い時代に、今日の美術家でも到底出来まいと思う程の物が沢山あるので、驚くの外なかったのである。その中で何といっても法隆寺の品物であろう。何しろ数多くの金銅仏や、木彫、乾漆、塑像(そぞう)等はもちろん、厨子(ずし)や仏器に至るまで、他の寺院にあるそれらのものを断然切り離しているといってもいい程の優秀な物ばかりなのである。特に有名な百済(くだら)観音などは、いつ観ても頭の下る思いがする。また最近出来上ったという例の壁画は、まだ一般には観せるところまではいっていないようだが、以前私は観た事があるので想像は出来ると共に、今飾ってある写真だけを観ても、偲(しの)ばれるのである。

  なお、右、法隆寺のほか、私の最も感嘆に堪えなかったのは、彼の薬師寺の本尊仏であろう。これは幾千万言費すよりも、実物を観た方がいい、実に言語に絶する神技である。恐らく現代のどんな名人でも、到底この何分の一も難しいであろう。その他各寺にある物ことごとくと言いたい程名作ばかりであるから一々は略すとして、今さらながら木彫における日本の地位は、世界一といっても過言ではなかろう。今回私が廻って見た寺は、東大寺、薬師寺、法華寺、法隆寺、奈良博物館と、少し離れた宇治平等院の鳳凰堂、石山寺等であったが、右の鳳凰堂にある仏体は、藤原期の代表作で立派なものであった。そこで私が思った事は、このように数ある古代仏教芸術を一堂に集めて、日本人にも外国人にも手軽に観られるようにしたら、どんなにか歓ぶであろうし、益するところ大きいかを想像してみた事である。それと共に日本人がいかに古代から文化的に卓越せる民族であるかが充分認識されるであろう。その意味において私はいずれ京都に一大美術館を建て、それを如実に現したいと今から期待しているのである。

  以上は今回の紀行をザットかいたのであるが、このほかに鎌倉時代の仏教彫刻についても一言いいたい事は、何しろ奈良朝以後暫く落着き状態であった仏教彫刻は、この頃に至って俄然盛り返し、絢爛たる様相を呈したのである。もちろん巨匠名人続出し、彼の運慶と快慶等もこの時の名人であった。そうして奈良時代のそれと異うところは、ほとんど木彫ばかりで、特に彩色が大いに進歩すると共に、模様に切金(きりかね)を使い始めた事で、これが大いに流行し、その作品は今も相当残っているが、その巧みな技術は感嘆に価するものがある。よくもこの時代にこのような巧緻(こうち)な物が出来たものかと、私は常に感嘆している。この切金模様の極致ともいうべき名作が箱根美術館に出陳されるから、観れば誰しも驚くであろう。

  これで大体、今度の仏教美術の見聞記は終ったが、元来日本の彫刻は仏教に関する以外の名作は余りなかったようである。ただ有名なのは左甚五郎であるが、この人に関する興味ある伝説も随分あるが、その作品に至っては一般人の目に触れる物はほとんどないといっていい。ただあるのは日光東照宮の眠りの猫くらいのものであろう。だが私はここに推賞したい一人がある。それは今生きている人で、佐藤玄々という彫刻家である。この人は初めは朝山、次は清蔵といい、玄々は三度目の名であるが、その点珍しい人である。この人は今年確か八十三か四と思うが、古来稀にみる名人と思っている。私はこの人の作品を好み傑作品と思う数点を美術館に出すつもりだから、観たら分るであろう。

平等院の創建[編集]

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/0/05/%E5%B9%B3%E7%AD%89%E9%99%A2_01.JPG/220px-%E5%B9%B3%E7%AD%89%E9%99%A2_01.JPG

浄土式庭園と鳳凰堂

京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。天喜元年(1053)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

宗教法人平等院の設立は昭和28年(1953年)である

平成24年(2012年)9月3日から平成26年(2014年)3月31日まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われた[16][17][18][19][20]。この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなっていた。平成26年10月1日落成式が行われ修理工事が完了した[21]

当時は非常に規模の大きな寺院だったらしいが、建武3年(1336年)に楠木正成によって建造物の大半が焼かれ、応仁の乱で更に衰退し、当時から残っているものは、阿弥陀堂(現在は「鳳凰堂」と呼ばれている)と鎌倉時代に再建された「観音堂」だけらしい。

鳳凰は想像上の鳥で、鳳がオス、凰がメスとされています。
一万円札の鳳凰は、京都府宇治市にある平等院という寺院の一部である鳳凰堂の屋根の上に対で飾られているものです。鳳凰堂の鳳凰の首には宝珠(ほうじゅ)の付いた首輪がはめられています。仏教において、如意宝珠(にょいほうじゅ)は、様々な霊験を表すとされる宝の珠(たま)のことです。仏塔の頂上に置かれることが多いです。鳳凰は中国の神話としての生き物であって仏教とは直接関係する動物ではなく、推察するに、平等院では仏教寺院の飾りとしての鳳凰に宝珠(ほうじゅ)の付いた首輪を付けることで、霊鳥である鳳凰でさえも仏教の下に置かれているということを示したかったのではないでしょうか。

http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%B3%B3%E5%87%B0

鳳凰とは、中国伝説上の霊である。

概要

」は雄を、「凰」は雌を表し、古くは「」と呼ばれた。

360種の羽を持つ動物の長であり、天子の治める平和な世にのみ姿を現すとされる。鳳凰が飛ぶ時には、その徳によっても起こらず、河川も溢れず、木も揺れないという。そして、鳳凰を飛べば、他のもその後をついて飛び、鳳凰死ねば多くのが嘆き悲しんだという。

古代中国の書物『礼記』では麒麟(霊)・応龍)とともに特別な瑞獣「四霊」(もしくは四瑞)のひとつであり、安を表すとされた。これは鳳凰が雌雄一対であることから、陰と陽の対立を持って調和をなすとする陰陽思想から来ている。

(アオギリ)という木にのみ巣を作り、の実と甘露のみを食物とした。

鳳凰は縁起のよいであることから、多くの美術品や建築物にその意が使われている。日本では平等院鳳凰堂(宇治)や鹿苑寺閣(金閣寺京都市)の屋根にあるものが有名。特に鳳凰屋上のものは2004年から発行の現行一万円札裏面にも描かれている。

姿かたち

孔雀に似ていて、5色に美しい鳥。詳しい容姿については諸説ある。

中国最古の地理書『山経』では「の頭にツバメ、首が、尾は背中の五色にいている」とされた。別の説では前が麒麟、うしろが鹿のような姿とも。

江戸時代日本の書物『和三才図会』には、「前面はヒシクイ、後面は麒麟ツバメ、くちばしは、首は、尾は、額はコウノトリ、の先はオシドリ、の模様に背中を持ち、羽は5色で高さは4〜5尺ある」と書かれている。

鳳凰

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B0

鳳凰(ほうおう、?音: Fènghuáng)は、中国神話の伝説の鳥、霊鳥である。鳳皇とも。日本や朝鮮など東アジア全域にわたって、装飾やシンボル、物語・説話・説教などで登場する。

春秋時代の『詩経』『春秋左氏伝』『論語』などでは「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」といわれる瑞獣(瑞鳥)のひとつとされる。

天子

曖昧さ回避この項目では、天下を治める人物について説明しています。八丈島の妖怪については「テンジ」をご覧ください。

天子(てんし)とは、中国や日本で用いられた君主の称号。天下を治める者。国王、皇帝、天皇などの別号として用いられる。

王は天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源とする。周代、周公旦によって「天帝がその子として王を認め王位は家系によって継承されていく。王家が徳を失えば新たな家系が天命により定まる」という「天人相関説」が唱えられ、天と君主の関係を表す語として「天子」が用いられるようになったという。秦の始皇帝により、天下を治める者の呼称が神格化された皇帝へと変わると、天子の称は用いられなくなったが、漢代にいたり儒教精神の復活をみると、再び天子の称が用いられるようになり、それは皇帝の別名となった。

皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。皇帝は天帝に対しては天の子=天子として天を祭る儀礼を司り、それは皇帝だけに許された神聖儀礼として清朝に至るまで連綿と引き継がれた。

中国の影響を多く受けた日本でも、天子は大王・天皇の別名として用いられ、厩戸王(聖徳太子)は「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を隋の煬帝に送っている。




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2013年09月10日 更新の内容を書きます。
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