メシヤ講座三重

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質疑応答形式で作成を始めた19年11月度からの「メシヤ講座・三重」を掲載していきます。
個人のプライバシーに関する記述および個人を特定できてしまう記述は編者の独断で省略しておりますので文章につながりがないことがございます。
また、筆記で作成していますので表現上書きとれなかった箇所もございます。 
ご賢察の程お願い申し上げます。

平成22年2月分




メシヤ講座特選集No.108
<メシヤ様対談記・17>
明主様(メシヤ様)
国際情勢と医学農業問題について大いに語らる
        報知新聞社取締役社長
         竹内四郎氏外二氏との御対談(一)
       (栄百九十三号 昭和28年2月4日)

(先生)
皆さん、これまで救世(きゅうせい)会館と言ってきたので救世(メシヤ)会館と言うと 違ったイメージで伝わってくるかもしれませんね。  今の救世(きゅうせい)会館の前のね会館で救世(メシヤ)会館として建てたわけです。  そしてその開館を昭和30年3月3日に執り行う計画(上棟式は昭和28年10月16日)で、 しかもそれを「メシヤ降誕本祝典」にされようとしたようです。

(質問者)
いつ建て替えてしまったのですか?

(先生)
昭和47年でしたかね。一元化して最初の記念行事で建て替えたのですね。

(質問者)
構造上に問題があるということだったのですか?

(先生)
そうですね。構造上の問題ね、当時の担当者は「会館全体に不等沈下が見られる」と 説明しております。【実際には、二代様の指示で救世(メシヤ)会館の御神床と壁を取り壊し、そこに隣接して 救世(きゅうせい)神殿が建造されました。そのため救世(メシヤ)会館自体に亀裂が生じて いたと言われています。】 それと参拝席が少ないということもありますね。 しかし、建て替えたことに対する批判は 結構あるのですけども、メシヤ様のご計画を見て行くと・・

(質問者)
劇場と書いてありますね。

(先生)
そう劇場化するということなので、やはり大勢集めるという点においては建て替えても 問題ではないと思います。しかし、できれば御遺作として、あるいは教祖記念館として 残しておいて補強してですね、別の所へ大きな会館を造って行ったらよかった、という 希望はありますけどね。残念なことの一つです。 【資料の中には「昭和44年、瑞雲会館講堂で行われた教会長会議において渡辺勝市 総長(当時)から救世(メシア)会館建て替えの説明がありました。」という記述もあります から、教団紛争時にその弟子達によって救世(きゅうせい)会館が占拠されたということは 因縁めいたものを感じます。】

(質問者)
「良い意味で問題になるのは良い」と書かれてますね。

(先生)
そうですね。ただ問題を起こすということではないですからね。  良い意味で注目されるのは良いということですね。

(先生)
腰が痛いのは誰でしたか。

(質問者)
肩甲骨の少し下のあたりが痛いのです。

(先生)
骨の部分ですか?内臓的な痛さですか?

(質問者)
腰の部分を押さえると胃も背中もドーンとする痛みが楽になります。

(先生)
それじゃ、腰だね。椎間板ヘルニアですね。腰を早めに浄霊すれば大丈夫ですよ。 痛みというのは「感覚」だからその悪い場所ではない場合もあるわけです。  良く冷たいものを食べた時に頭が痛くなるのと一緒ですね。頭が悪いわけじゃないけど頭が痛くなるでしょう。  あれは歯の痛みを・・冷たさを脳が勘違いして頭が痛くなるのです。 だから悪い場所と痛みが必ずしも一致するわけではないのですよ。 ですから悪い場所がわかったわけですから、そこを(腰を)徹底して浄霊すれば 良いです。 力仕事をずーっとしていると脊髄の中に神経を刺激するように突出してきたりするのです。 ですからそこを良く浄霊するとともに、これから身体を使ったら良く体操をする。終わった後柔軟体操をしてとにかく脊髄を伸ばすことを心掛けないと。それから 自己浄霊を常にしているでしょうが、後ろから頂く浄霊は自分でしててもうまく できないことがあるので、やっぱり一週間に一度位は人から浄霊をしてもらって 後ろを良く浄霊頂いて下さい。場所はわかったわけですからそこを良くしても らってください。 お互い年齢的に痛み始めるころですから。腰という漢字を書けば「にくづき」に 要(かなめ)と書くでしょ。 要の場所だから一番良く使うところだから。一番使ったところは痛み始めますからね。

(質問者)
若い時にギックリ腰をしているのですよ。高校の時に。

(先生)
そのあとは?

(質問者)
なかったと思います。

(先生)
ギックリ腰をやると腰が悪いのだと思ってしまうけども、大体頭が悪いのですよ。 成績の善し悪しではないですよ。(笑い) 頭の中では前頭部で人間はこういうふうに生きて行かなければいけないとか、私 はこういう立場だからこういう事に心がけなければいけないとか、考えますが、 後頭部では何で私だけが!というふうに思ってしまうのです。私ばっかりこんな ことさせられる、とかね。 そうするとそういう思いが頭の中心部分に曇りを発生させるのです。今日の御対談の御教えに菌の発生源について『菌が伝染するとしても、その最初の菌は忽 然(こつぜん)として出来たものではなく、発生源というものがある筈(はず) です。』と仰り、メシヤ様は発生源という御言葉で解説して下さっておられます。 前頭部と後頭部が闘うわけです。そうすると中心に曇りが発生する。曇りが発生すると毒素を作ってしまう。その毒素がずーっと下りてきてたまたま腰に来た人がギックリ腰になるのです。  それで順調にもっと下りてきた人が痔になる。 痔の方が簡単なのです。痔はダーッと出せば良いが腰に溜まってしまうと動きが 取れなくなるからね。ギックリ腰した時は大変だったと思いますね。要は頭の曇りが原因ですのでそこをする時には脳天から頭の真中から曇りをとるように、浄霊することが大事なので、腰を痛めている時には脳天から頭の真中を浄霊するようにね。そういう気持ちで浄霊するようにして頂きたいと思います。 頭の真中を浄霊するというときに中々イメージが湧かないので、脳天から脊髄に向かってずーっとお尻(肛門)まで下りるようなつもりで浄霊すれば大体頭の真中に光が行くから・・そういうようなつもりでやってください。脳天は割と浄霊しやすいから・・手が届きやすいからね。 だから今回の御教えのね。「発生源」という御言葉は、私達に非常に示唆を与えて 下さるものですから、しっかり受け止めて頂きたいと思います。

(質問者)
発生源をつくらないようにするには普段の生活はどういうふうにしたら良いので しょうか。

(先生)
『感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ、何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ、この理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ、大本教のお筆先にいわく「喜べば喜び事が来るぞよ」とは正に至言である。(人間 は想念次第 光 25号 昭和24年9月3日発行)』という御教えを毎日拝読してく ださい。 そうすると前頭部と後頭部の闘いを緩和していくから。  「何でわたしばっかり」と不平不満を言うとこれは悪魔に通ずるからこれは良くないので、すっと気持ちを切り替えるようにしてください。  

(質問者)
納得できなくても感謝しなければいけないのですか。  

(先生)
納得できなければ納得するまで、これは考えて行かないといけませんね。  それをいつも抱えていると曇りを発生してしまうのです。納得できなければ納得 するまで考えて、そして此処へ、この勉強会へ持ってくる。 そして「納得いかないのですけどもどう考えたら良いですか」と。あるいはそれ はミニメシヤ講座でも良いですよ。 そういうふうに皆の意見を聞くとかいうふうにして乗り越えて行くね、解答を見つ け出さないとね。  メシヤ様の御精神を考えて行くと、信仰長いからね、スッと出てくるでしょう。

(質問者)
・・・

(先生)
「利他愛」ですね。しかし利他愛ということばっかり言っていると不平不満が出てくるから。メシヤ様の御精神としてもう一つあるのは「合理性」ということです。  『神様というのは理屈に合えば愛ですが、理屈に合わなければどうしようもありません』とメシヤ様はおしゃっておられます。 だから今度合理的に考えて下さい。理屈・・どうしようもない問題の中に、理屈 はどうなっているかということです。例えば子供の問題であれば“私が産んだ子供だ”と。“どうしてあんなふうに育っ たのだろうか”と考えた時に、これは「育てたように育ったのだ」ということです。「いや〜、あそんなつもりはありませんよ」と皆さんは言うのですが、実は子供というの  は育てた通りに育っているのです。  

(質問者)
えらいこっちゃ。(笑い)

(先生)
「えらいこっちゃ」なのです。それは子供というのは毎日親を見ているわけですから。「親を見て育った通りに育っている」のです。  だから子供の問題は親に原因があると考えて下さい。今度孫の場合はね。「私が育てたように育った」親が、また育てた通りに孫は育っています。 (笑い)  ですから回りまわってくると自分に原因があるのだとね。  そういうことを根底に置いて“じゃあどうしたら良いのか”ということを今度は組み立てなおして行かないといけないので、“ 私のどういうところが影響を与えたの だろうか”ということを日々考えて行かないとね。 これが実はね、支部へ参拝に来るときにね考えることなのです。 さあ。今の話を受けて何かありますか。

(質問者)
でも今更それを無かったことには・・・。出発点に戻そうとしてもそれは出来ない ことなのですか?  

(先生)
いや出来る。実は。 発生源があるわけだから、発生源を見つけて、つきとめて、そこから直せば良いわけだから。

(質問者)
その発生源を知るということは。“そんなつもりではなかったのに”と思ってい る以上はわかりませんよね。

(先生)
そうです。“そんなつもりではなかったのに”と思っているうちはわかりません。 ですから「子供は育てたように育っている」ということになると、“どのように私は 接してきたか”とか、“思ってきたか”とか、“育ててきたか”とかいうことを見つめていかないと いけません。

(質問者)
難しいですね。

(先生)
そう。難しいです。それでこういう時に参考にするのはメシヤ様が『お前達御教えばかり読まないで小説も読みなさい』 と言われたことなのです。 あなたも他の本一杯読んでいるでしょう?仏教書が多 いのですか?

(質問者)
そうですね・・・でもあんまり・・・。

(先生)
私の好きな小説家の中に池波正太郎がいます。

(質問者)
そう。その小説家好きです。全集を持っています。

【 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』  池波 正太郎(いけなみ しょうたろう、1923年(大正12年)1月25日 - 1990年  (平成2年)5月3日)は戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。『鬼平犯科  帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を > 舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名で > あった。】

(先生)
では何故、池波正太郎はそんな素晴らしい小説が書けたのかということですね。 全集読まれてそういうところまで結論出ていますか。

(質問者)
悪道の中の人情味の表現が上手で安心して読めるのです。

(先生)
だから池波正太郎の特徴というのは一体何かということですね。  そういう人情味があるということ。ということは人間研究が良く出来ているとい  うことでしょう。それともう一つの特徴は?料理ですね。  美味しそうな料理が出てきますね。その情景を読むと食べたくなる。  料理が小説に出てくるきっかけになった話があるのですが、そういうことは読んだことありますか。

(質問者)
ないですね。

(先生)
実はね。あの人は母子家庭だったのです。その母親が月に1日だけ帰りが遅い日があるのです。 池波正太郎が少年時代に母親の後をつけるのです。すると寿司屋に入って行くので す。その寿司を食べている姿がほっとした顔で食べているのです。今まで自分たちに見せたことのないような顔でね。その時に池波少年は「ああお母さんはこの 時を楽しみに頑張っているのだ」と思って、食べ物に対する考え方が一転してしま うわけです。 夕拝で拝読する御教え『天国的生活』に『悉(みな)神が自分を慰めて下さるものであるように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固(もと)より鳥獣虫 魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる』とあるでしょう。 食べ物に対するそういった気持がおそらく小説の中に入ってきているのではないかと思うわけです。 小説の中には、人間は楽しみがあるからこそどんな苦労も乗り越えることができるのだ、とか。あるいは、人をねぎらってあげるときには食べ物が一番良いのだ、と か。人間の心の琴線に触れる行為とか言葉というものが小説の中には一杯散らばっているから、『そういうものを勉強しなさい』ということがメシヤ様の御心の中にはあるのです。 そしたら、今度は自分の子育てというものにそれを当てはめてみる。 例えば私の家でも親から言われてきた言葉には批判する内容もあるわけです。 全部親に感謝しているかというと、親のこういうところは駄目だった、と。だから 私の心が絶えずこの方向を向くということもあるのだ、というふうに考えて自分は成長しているわけです。 子供はそんなふうに思っているわけはない、と思いこんで親は育てているわけで す。しかし子供は深く深く物事を考えて成長しているわけです。だから「こうい うふうにならなければいけないのよ」と言いますが、「お母さんはどうなの」というふうに子供は見ているわけです。ですからその部分が「育てたように育った」という部分なのです。「こういうふうにならなければいけないのよ」と言ったあなたがどのようにしていたか、ということを見て子供は育ったということな のです。ですからこの見ている部分が「育てたように育っている」という意味です。 子供は親の背中をみてますが、親が口にしたこととやったことにズレがあった場 合はそこを子供はキッチリと見ている、ということです。子供はボーっとしているようで実は細かく見ているのです。 そして、ここで大事なのは、外で人に「うちの親はこういうことを言うけども言ったこととやっていることが違うのよ」と言った時に、今度は徳があると良い人に愚痴るのです。すると「あなたそういうことを言うものじゃないわよ。あなたのお母さんね、ここであなたのことをこんなふうに誉めてたわよ」と・・・すると“ああうちのお母さんそういうとこあるんだ”と思うのです。 しかし、「あなたのこと馬鹿みたいに言ってたわよ」と仮りに言われたら、もう大嫌いになって行きますね。ですからこれを形成している原因が「徳」なんだと。「徳」のある場合は良い人に愚痴る。「徳」がないとさらに悪化させる人に愚痴ってしまうのです。だから親は子供を精一杯育てながらね、信仰するということは徳を積むということが一番大事なわけです。そうすると今度はずーっと子供の頃から考えて来た時にどうだったかということを見つめてノートに書いていくのです。 「あの時こうだったなあ」とか、そういうふうに見つめるのです。それでもっと前からいうと妊娠した時どうだった、とかね。遡ってどうだったかということを考えて見ることが大事です。もう年だから遅いということはないわけです。 気付いたらね今度はどうしたら良いかということを今日はもう話してしまいます。  一般的に自分の話したこととやっていることが違っていた場合、気付いたら「あの時はあなたの何歳の時にそういう態度を私とってごめんね。」というふうな想いで話をすれば良いわけです。「あの時すまんかったね」と言ってもだめなわけです。すると「本当に、お母さんたら口ばっかりね」となってしまいますから。それを口にしないで想いで話をかける。これが一つの解決策に繋がって行くのです。

(質問者)
そういうふうにした自分もまた親に育てられたのですが・・・。

(先生)
その通りです。次の段階ではそこですね。

(質問者)
それは親に言うのですか?

(先生)
違うのです。そこで気付いたということは自分が悟りを開いたということです。仏教で悟りが開けないというのはね。念仏だけ唱えさせる。およそ千年前の精神対応なわけで す。現代ではね念仏では心を整理できる時代ではないのです。複雑になっていますから。 今回の御教えは時代に合った建築のお話でしたが、ですから精神活動も時代に合った精神活動をしなければいけないわけです。  だからこそ、私はメシヤ様に出会って人間を一から形成し直そうと今 しているのだ、と受け止めたいですね。親に一切責任を求めない、ということです。

(質問者)
子供が言ってきたらそういうふうに言えばよいのですか。  

(先生)
でもね。子供が言ってきたら「私が駄目だったから。ごめんね。」と言って何歳になろうと抱きしめてあげるのです。そういうふうに子供から言われた時には全部受け止める。しかし自分は親にはそういうことは求めない。 これが崇高なる生き方なのです。メシヤ様は最高最貴の生き方を我々に求めている、ということはそういうことなのです。人には求めない。しかし自分が求められた時には全面的に「悪かったね」と、いうふうに言ってあげる。

(質問者)
そんなん、「あんたも悪いやろ」と言ってしまうよな。  

(先生)
怒ってしまうね、普通はね。それが自然です。自然ですが「私の育て方が悪かったね。ごめんね」とまずは言って、「それじゃどうしたら良いの」と言ったら、「じゃあ、 支部へ行って勉強しようじゃないの」と言って、「育て方が悪かったのだから育てなおしをするヒントを支部で頂きなさい」と、御案内するのです。そして話を聞くと人間の精神構造というのはそういうものか、とだんだんわかってきます。  これをね。心理学的な言葉で言うと「刷り込み」と言うのです。 「あなた馬鹿ね馬鹿ね」と言うと「私は馬鹿なんだ」と思いこんでしまうでしょう。  だからね。虐待を受けた子供は「私が悪いから虐待を受けたんだ」と皆考えるでしょう。「親が悪いから虐待を受けている」と考えないわけです。それはね、叩くときにそういう言葉をかけて叩くからなのです。痛いのと同時にその言葉が自分の中に沁み込んで行くのです。 こういう刷り込みの特徴が心理学的にもあるわけです。 だから自分達が意識しないでも、ずーっと子供たちにそういうふうに言葉をかけて、 後ろ姿を見せて子供は育ってしまった、というわけなのです。ですからそれに対し て子供から文句がでたら「ごめんね」ということで、そして「人間形成をやり直そう」 と言い。で「どうしたら良いか」と言ったら「支部へ行こう」と御案内するのです。  そして、今度はここからまた大事ですよ。浄霊を頂くときにはそこに光があたるようにするわけです。「自分が育てて行く上でこういう問題を発生してしまっているからそこが浄まりますように」とい う気持ちで浄霊して頂くのです。ですから浄霊というのは実は取り次ぐ人が真剣 なのと同時に頂く方が真剣に頂かないといけません。ぼーっと頂いていると“ただ身体が楽になりたい”という浄霊で終わってしまいます。自分の中で自己形成していく上で「この点が問題だな」と思ったところに光がずーっと入ってこないといけません。 今日は少し高度な浄霊の頂き方の話をしているのですよ。 メシヤ様から光がずーっと来るのですけども、光のあたってほしい場所が具合の悪い所だけでなく、精神的に人間形成をしていくところにおいてちょっとまずかった所に光を頂く、と。光を入れてもらって自己形成をしていく、と。そうすると浄霊を頂くときに「今日は寒いわね」とか言いながら浄霊を頂くことはないわけです。

(質問者)
先生、私を見て言わないで。(笑い)

(先生)
誰を見て良いかわからないのでね。

(質問者)
本部参拝の時、浄化を頂き、呼吸困難になるほどしんどかったのですが、後ろから浄霊を頂いた時にどーんとつき出されるような浄霊でした。

(先生)
実は、その浄化が今日の話を導くための浄化だった、とそういうふうに受け止めると良いと思います。やはり曇りが取れないと方針というものは見えてこないから。めぐりとか曇りが家をずーっと覆っているからね。その家の中心で取り組む人が前進していかないと浄まっていかないからね。節目となる節分祭・立春祭に参拝をして貫くような浄霊が一瞬だったけど頂けて、 それから体が楽になったということを受けて、そして今日また「浄霊の頂き方」という深い浄霊の頂き方の話になったので、そういうふうに繋がっていると受け止めることができればね。 前回の報告は肉体的なものでした。これからはさらに精神構造とか・・・霊の世界と言うと先祖とかそういうことばかり考えてしまいますが、霊の世界の根本はね「魂」とそのまわりの「心」とそしてそのまわりが「霊体」だからね。ですから、霊というと、本当は心、そして心の中心が魂だから、この関連性で話して行かないとね。霊の話と言うと非常に表層的なものになってくるのでね。 一番中心は魂だからね。その魂に行く前に、今日は心の部分をずいぶんと話すきっかけを非常に出来たので良かったと思います。

(先生)
まだ漠然とした話ですからね。もっと具体的に聞いてもらって良いですよ。ここから私の場合どうしたら良いかと考えた時に、来月でも良いですが、あの時話を聞いて一ケ月間考えたのですが、この点どうなのですかと。そういう質問になって深みが出てくるのです。

(質問者)
20歳を過ぎた子供が朝風呂入るのですが、いつも必要なものを持たずに風呂に入る のです。

(先生)
それね。親がしてあげているからですよ。自分でしなさいと。「裸のまま取りに行きなさい」と言ってあげれば良い。

(質問者)
言うのですけどね。

(先生)
その時どうするの。裸のまま取りに行くの?

(質問者)
そういう時もありますが、時間がないというので・・


(先生)
そういうのはね。「時間がない」という言葉に親が負けてしまっているのです。  手をかけてしまうと何時までたってもなおらないからね。 その時子供がいろいろ言っても放っておく勇気が親には必要です。

(質問者)
いつも必要なものなのに何で段取りが出来ないのかと不思議でしょうがありません。

(先生)
だから出来る年の時に手を出してやっていた可能性があるのです。  子供の時にやらせてないとそういうことが欠落した女性になってしまいます。  親がいつも手を出していると心理的にやってもらって当然になってしまうのです。 だから“私がそういうふうに育てちゃったのだ”と思わないとね。 でね、ついついやり過ぎてしまう関係の中にはいろいろあります。  例えば子供に負い目があったりとかね。 親子でもね結構気を遣っているのでね。気を遣った上で言葉をかけている。 それがね。親として相応しい気遣いか、事情があって負い目のある気遣いかでね。 その違いで手の出し方が正常でない出し方になってしまうのです。 ですからその点を振り返ってもらって私はこの子が何歳の時に少しやり過ぎたな とか。  そういうことを見つけてそれを改めるのは少し難しいわけだから 「私が何歳の時に手をかけすぎたからこれが駄目なのよね。」というふうにして今度は教え込まないとね私が悪かったから教えていない、と。だからあなたは自分に自分で教え込みなさい、と。  これを自己教育と言うんだ、と。こういうとき難しい言葉を使ってね。 「馬鹿ねあなたはいつも忘れて」とかだと、何時もそういうことを繰り返すことになります。 普通に育てたつもりなんだけども、その年齢で身につけねばならないことを身につ けさせられなかったために、僅かなことだけれど、靴下をとってこれない、とかそういうことに反映してしまうのです。一番わかりやすいのはね、女の子はお母さんの台所の布巾のかけ方などがそのまま身に 付いているからね。雑巾のかけかたとかね。娘を見るとね、お母さんがどんな炊事をやっているのかということがわかります。 日本の場合特に台所が狭いのでね。良く見えるから、もう目で刷り込まれているから“こうするものだ”とね。お母さんのやり方そのままになります。

(質問者)
逆の場合もありますよね。  子供の方から「こういうふうにしなさい」とか、風呂上がりのタオル一つでも「ここへ こういうふうに置いてほしい」とかね。  それが確かに正しいのですけども・・

(先生)
正しければそれは娘の方が立派だなあ、と思えば良い。それを親は反面教師となることもあるということです。 親は全部が完璧な人はいないのだからね。ミスもあります。そのミスについては自分が他所でみたことでね、こうした方が良い、というのは家の中でこうしてと言ったら“それはいいなあ”と思ったら「わかった」と今度は子供から教えてもらわないとね。  そういう気持ちのない親が問題なのです。娘からも学ぼうという姿勢のない親が一番困った親なのです。 他所の良いことを聞いたら、それを心がけてみよう、という親がいると素晴らしい家庭になるのです。  

(質問者)
そんなことを言っても私には私のやり方があるので。

(先生)
そういう理屈を言っている親が困るのですよ。 親子というのはそうやって切磋琢磨していくのです。 『人間とは』の御教えで『生き変わり、死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである』とありますが、そういう御教えを知っているからこそ、親子のそういう掛け合いも楽しくなっていかなければいけませんね。 それで腹立てていると病気になっちゃうから。“うちの子もこういう良い点があったんだなあ”とかね。そういうふうに見て行くとね家庭が進歩していくのですよ。

(質問者)
DVは悲しい問題ですね。

(先生)
男と女の間のDVはいろいろ原因があるけども、一つは男の人の「幼稚さ」ともう一つは女の人の「口」が原因ということがあります。 女の人の射すような言葉が入ってくると、それに対して男の人は口が回らないので > ね。反撃できない、口でね。口で反撃できないから手が出るのです。両方子供なわけです。  その男の人が小さい時に喧嘩したことがないことがまた原因なわけです。

(質問者)
痛みを知らないからですか。

(先生)
そう。痛みを知らない、殴られた衝撃とかね、中学時代に一回喧嘩しておくとね。 人を殴ってはいけないと沁みつくのですけどね。喧嘩しないのでわからないのです。  「駄目」「駄目」で育てているのでね。昔の人は悪かったんだけども、そういう身体的な駆け引きを小さいころに一回やっておかないとね。どうしても女の人に手を上げてはいけないということが男は沁 みつかない。自分が殴られたことがないからね。まあ女の人は最近強くなってますけどね・・・。

(先生)
浄霊頂くときにはね。子供がうるさいといけないからと言ってね、最初から本を読ませたりしないで、自分が頂く姿勢をまず最優先する。 子供が騒ぎますが、泣く分にはいくらでも構わないからね。“泣いてうるさいだろうな”というよりも、本を読んでいる声の方が却ってうるさいから。真剣に浄霊している時に ね、言葉が聞こえてくるとね。想念の中に言葉がダブってしまうから。浄霊する時にそっちの方が乱れる。子供が泣いたり走り回るのは全然想念は乱れないのでね。しかし言葉が出てくると想念が乱れてくる。 取り次ぐ側としてはね。ですから、そういうふうに心がけて頂きたいと思います。  そして自分に光が入ってくる方をずーっと意識してね。子供が皆に迷惑をかけないようにということに意識を持つよりも、自分がこの月に一回の光をね。光がずーっと私の方へ入って頂くということにね。集中する方へ心を持って行ってく ださい。 子供は泣くのと動き回るのは仕事みたいなものだからね。それは全く問題ではないのでね。自分自身が参拝する時に、神様から力を頂く、参拝する時の御神体から光によって自分の祝詞によって浄められていく、というそういう霊界が出来て行くことに集中し > ます。集団浄霊の時には、一人一人に一本ずつ光がガーッと額(ひたい)に向かって入って行く時の、光が自分の体の中に充満してくることの姿勢に集中して行って子供が後ろでガタガタやっていてもそんなのはどうでも良いのでね。 どうでも良いというよりも、まあ静かにしていてほしいのですが、しかし自分がやっぱり光をずーっと入れるという。魂はどこにありますかという御教えね。額の何ミリ後ろとか・・・そこへ光が > ガーッと入って行くから。そういう自分の中に光が入ってきて頂きたい、と。そういう気持ちで頂く方に集中していった方が良いですね。 他の教団で子供を叱りつけたり、御神前に入れないところもありますが、それは子供の本質をわかっていないのでね。

(質問者)
『文明の創造』の『天国篇』に『其大綱としては、前述の如き大自然の形となる以上、一切の機構も三段階になり、分れて六となり、又分れて九となる、つまり三六九で、之を縮めればミロクとなる。地上天国一名ミロクの世とは此事である。ではミロクの世とは具体的にはどのような世界であるかを、順次説いてみよう。』 とありますが、三が分かれると六で六が分かれると十二になるのですがこれは三のところが三つにわかれて九になると考えれば良いのでしょうか。

(先生)
だからそれで良いのではないですかね。六が分かれてというところを三が三つに わかれて九になるとね。  魂と心の関係は百倍でしょう。その百倍が霊だと。百倍の百倍は一万倍だけども良く千倍と書いてあります。だから心を元にしてという言い方で口述筆記の時に間違うこともあったのではないかと思います。  皆さん『文明の創造』自体を読んでないのでね。『総論』『科学篇』『宗教篇』 と篇毎に内部研鑽資料を作成して行って、天国篇へ皆の考え方を基本にして、最後に作り上げれば良いのではないかと思っています。 そこで、『まとめるのは君たちだ』というところが大切なことになってくるのです。 「霊主体従」と「霊体一致」と「浄化作用の理」とそういう基本的な教えがあるでしょう。それを生活の中にどう活かすかという教え方がほとんどできていない からね。教団の中でね。入信研修で『霊主体従の法則』は学びますが、ではそれをどのように生活にとりいれたらよいのか、ということはあまり聞かないと思います。

(質問者)
そして、『文明の創造』の『既成文化の謬点』に『宗教、思想、哲学、教育、科学、 芸術 悉く包含されている。』とありますが、芸術、教育、自然農法に関する御論文の掲載が少ないように思います。でそういったことを天国篇にお書きになられる積りでなかったかと思いまして。

(先生)
『霊体一致』を学ぶときにね、自然農法は不可欠ですからね。 > そして生活というのを見つめた時には天国的生活ということが天国には不可欠に > なってきますしね。 ですからそういうことを踏まえて我々の日常生活と言うものはどうかということ を見つめて行くと。『まとめるのは君たちだ』というそのお言葉にぴったり入っ てくるのではないかと思います。

【御教え】信仰の合理性と再浄化 栄光 210号、昭和28年5月27日発行

 そもそも信仰の根本は、合理の二字にある事を忘れてはならない。いかに信仰 もっともらしい説を立てても、道理に合わないとしたら真の信仰とはいえないのである。この意味において神様というものは、理屈に合えば何程でも御守護があるが、理屈に合わなければいかに拝むとても、御守護はないのである。この点が最も肝腎であって、再浄化の意味もこれに外ならないのである。散々医療を始めあらゆる療法を受けても治らない結核患者などが、浄霊によってたちまち治ったので喜んで入信することとなる。そして暫くしてから再浄化が起る人がよくあるが、これはどういう訳かというと、もちろん理屈に合っていないからである。すなわち医者から見放された病気が、神様の御蔭で治ったとした ら、神様から無い命を頂いた訳であるから、何程感謝してもし切れない程であるにかかわらず、中にはその当時の感激もいつか忘れて、最早治った以上それで済んだと思ってしまう。そうなると信仰前と同じでないまでも、感心出来ない生活態度となってしまうが、それで何事もなければ万々歳だが、どっこいそうはゆかない。というのは長い間散々薬毒を注ぎ込まれているため、健康恢復に伴い、溜りに溜っていた薬毒の排除作用が起る。これが再浄化である。しかしいつもいう通り右は体的面だけの事だが、実は霊的面の方に体的以上重要な問題があるのである。しかしこの事については今まで少しも知らしていなかったが、最早それが許されない時となったので、その根本をかくのである。 ではなぜ今まで知らせなかったかというと、未信者や新しい信者などには、誤解を招く懼(おそ)れがあるからで、出来るだけ言わないようにしていた。ところが段々浄化が強くなるにつれて再浄化の人も増える事になるから、ここにハッ キリさせるのである。そもそも世の中の事は一切相応の理によって動き、道理に合うように出来ている。特に信仰にあってはそれが顕著である。彼(か)の釈尊のいわれた生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)とは、これを一言に喝破(かっぱ)したものであり、因果律(いんがりつ)とか因果応報などもその意味に外ならない。これによっても分るごとく、死を覚悟し絶望的となった重病患者が全治したと > したら、何を措(お)いても力の限り、神様に御恩報じをするのが当然であり、これが合理であるにかかわらず、忘れるとしたら御蔭の取りっ放しであり、恩知らずもはなはだしいのである。この理を一層分り易くいってみると、例えば生命の価値を十とすれば、十の感謝ならプラスマイナスであるが、十以上であればその余分だけはプラスになり、神様はその何倍にも当る御恵みを下さるものであ る。それと反対に感謝が五とすれば、差引五だけマイナスとなるから神様への借金となる。そこで一日も早く御返しすればいいが、それを怠(おこた)るとすると利息が嵩(かさ)んで借金は増えてゆく。この点現界と少しも変りはないので、これも相応の理である。そこで借金が溜ってある程度を越えると、神権裁判所から督促(とくそく)や差押えが来る。これが再浄化であるから、それに気が付き心からお詫びをすると共に、元利合計御払いすれば助かるのは当然である。 ところが中には飛んでもない考え違いを起す人がある。それは信仰で治ったと 思ったのはヤハリ一時的で、本当に治ったのではないとして迷い始める。そこへ周囲の者などが、それ見た事かと言わんばかりにしきりに医療を勧めるので、ついその気になって医者へ行く事になるが、もうこうなったらお仕舞で、十人が十人悪化の一路を辿(たど)り、ついにあの世行となるのは常に経験するところである。ではそうなる原因はどこにあるかというと、霊界においては悪魔は人間の心の隙を狙いつめており、ちょっとでも油断があるとたちまち憑依し、その人をワヤにする。この点注意の上にも注意をしなければならないのである。 そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。 分相応の最大限度であればいいのである。神様は何もかも御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、その上一人でも多くの人を救い信者を作ればなおさら結構であって、要は実行である。そのようにすべてが理屈に叶(かな)え ば、まず再浄化は起らないはずで、たとえ起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、これなどは欺瞞(ぎまん)行為であるから、御利益のあろうはずはない。全く取次先生の考えが誤っているからである。そこへゆくと我救世(メシヤ)教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、至極合理的であるにかかわらず、それを怠(おこた)るとしたら、全く人間の方が間違っており、お気付けを頂くのは当然である。それでも気がつかないから命まで召上げられるので、どこまでも 不合理は赦(ゆる)されないのである。今一つ肝腎な事は、神様が命を下さる御目的はその人を御神業に働かせるためであるから、それを覚って実行すれば健康は益々よくなり、幸福は何程でも恵まれるが、それを裏切るとしたらせっかくの 救いを自分から拒否する訳である。

【御教え】 御教え集22号 昭和28年6月15日発行
『それからこの前“信仰は理屈に合わなければいけない”ということを言いましたが、それに関連したことがありましたから、そのことを書きましたから、今読ま  せますが、つまり浄霊の場合に、今まで、でたらめが多かったのです。そのでたらめでは、そこに理屈に合わないと、骨を折ってそれだけの効果がないのです。 それにちょうどよい例がありましたから、今読ませます。 (御論文「信仰の合理性について」)つまり浄霊でも、でたらめではあんまり効かないのです。それですから私なども、ふだん家内などがどんなに苦しんでいても、決して向こうでやってもらいたいと頼むまでは、絶対にやってやらないのです。“ここが苦しいから”“ここが痛いからやっていただきたい”と言えばよいですが、人間というものは変なもので、謎をかけるのです。“ああここが気持ちが悪い”とか“ここが苦しい”と言うのですが、私は知らん顔をしているのです。向こうが頭を下げるまではやらないのです。それはべつに、意地が悪いのでもなんでもないのです。そうでなければなおりが悪いのです。一番悪いのはよく押し売りをします。』

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