メシヤ講座三重

大言霊


信者は常に魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間たることを心掛けねばならぬ。



大言霊


言霊について


 彼の『聖書』に、「太初に言葉あり、万物これによって作らる」ということがあるが、これは言霊の活動をいったものである。それについて亘霊の根本義からかいてみるが、言霊は勿論人間の音声と舌、唇、顎の活動によって構成発射するものであるが、それを発する根本は言葉によって表現せんとする想念であることはいうまでもない。想念は意欲の表われである。解りやすくいえば人間が何等かの意欲が起るその意欲を言葉に表わすべく想念が活動する。勿論想念の活動には正邪善悪、成不成等の判断力も活動する。これを総合したのが智慧である。それ等を具体化したものが言霊であって、言霊を具体化したものが行動である。この理によって、想念、言霊、行為の三段階と思えば間違いはない。

右の如くであるとして想念は幽玄界に属し言霊は言霊界に属し、行為は現象界に属するのである。言わば、言霊は幽と物との中間である。念と行との媒介者といってもいい。これによってみても言霊なるものは如何に重要性があるか判るのである。

言霊は傀儡師と同様、鬼を出すも仏を出すも自由自在である。人を怒らすも笑わすも、心配させることも安心させることも悲しませることも喜ばせることも、波瀾を起させるも、和を造ることも失敗するのも成功するのも言霊次第である。斯様な重要な言霊を軽々しく使用するのは、危険この上なしというべきである。

しかしながら、言霊のみを如何に巧妙に操ったところで、単なる技術でしかない。落語、漫才、講釈師と同様である。どうしても言霊はその根本に偉力を発揮せしむべき力がなくては、何の意義をなさない。しかも力といっても、それに善悪の区別がある。即ち悪の言霊は罪を構成し、善の言霊は、徳を構成する以上、人間は善の言霊を使うべく努力すべきである。善の言霊とは、勿論誠が根本であり、誠は神からであるから、どうしても神を認めなければならない。とすれば、信仰者でなければ、真の誠は発揮出来ないから、言霊と雖も善的力が現われるはずがないのである。(昭和二十五年)



言霊の偉力


よく病気の苦痛は勿論、諸々の苦痛に対して、祝詞または善言讃詞によって、偉効を奏することがある。これに就いて不思議に思うのであるが、これは立派な理由があるから書いてみよう。

これこそ言霊の偉力であって、それは霊界に於ては、大言霊界、即ち七十五声の言霊が鳴り響いているからである。しかし、これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。勿論、正なる言霊は霊界の汚濁を軽滅さ廿るが、これと反対に、亜岩言霊は汚濁を増すのである。これは何故かといえば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基は善悪如何である。即ち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とは、一つ一つの単語の綴り方が、真善美に適っているからである。これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、何故快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。しかるに、悪の言霊は、魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。

ここで今一層、徹底しなければならない。ということは、私が常に言うところの副守護神、即ち動物霊は、心の範囲内に限定して憑依している以上、心の曇りが濃度であるほど副守護神の能力は強化される。しかしこれが曲者で、常に良心たる魂の光を遮蔽しているから悪を好む人間となるのである。ところが、悪の言霊は副守護神には快く響くので、これは事実がよく証明している。良い話を好むのは前述の如く魂に快く響くからであり、悪い言霊を好むのは副守護神が喜んで、快く響くのである。例えば、悪人共が悪事を語り合っているのを、仮に吾々が聴くとすれば、堪えられない程の不快であるに拘わらず、悪人は快感を催すのである。

以上の理によって、善い言霊は魂に響くから魂の光が増し、それによって心の曇りが減り、副守護神は萎縮する。萎縮するから悪を好まなくなる。というわけで、人間を苦しめていた副守護神は、善言讃詞によって萎縮、主たは、離脱することになり、心の曇りも減少するから、苦悩から解放されるのであ右によってみても、善言讃詞の言霊は、如何に善美極まるものであるかが判ると共に、善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。特に今一つの重要事がある。それは言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。即ち、魂の清い者程、言霊の偉力は発揮されるのである。それは霊的階級が上位であるからである。特に龍神に対する場合、龍神は非常に強いから、よほど上魂でないと龍神は承服することは出来難い、これに就いてこういう話がある。以前ある日蓮宗の行者で、「自分は龍神を祀りたいが、恐くて祀ることが出来ない。何故なれば、龍神は怒り易いので、少しでも粗相があると、何をされるか判らないから」というのである。しかし本教信者であれば、先ず大抵の龍神は反対することは出来ないのである。そうして龍神中、最高位であり、絶対力を具有しているのは、私の守護神である伊都能売金龍神である。たとえサタンの本体である赤龍と雖も、敵し得ないことは勿論で、二十数年以前、琵琶湖の上空で戦った際、赤龍は敗北遁走したによってみても明かである(これは『奇蹟物語』に詳説してある)。

従って、信者は常に魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間たることを心掛けねばならぬ。(昭和二十五年)

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